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本、建築、ときどき旅。
by fracoco-Y
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須賀敦子について
このひとの本を最初に読んだのがいつのことだったか、
もう思い出すことが出来ない。

印象が薄い、というのではなかった。
端正な、端正な日本語。
それは、美辞麗句を連ねた、という類のものではなく、あまりに控えめで
さりげなくて、染み入るようだったので、
かえっていつの間にか馴染んだという風で、
初めて読んだときがいつだったのか、思い出せないくらい自然に
私の中へ浸透していたのだった。

外国をモチーフにしたエッセイ、というのを私は好きだったし、
かといって誰が書いたものでも良いわけではなくて、
やはり好みがあるのだが、
須賀敦子のエッセイは、異邦人でありながら、異邦人の視点と、
イタリアに深く分け入った生活者の視点とが、
行間から等しく感じられるのだった。

生身の著者を知る人によると、控えめな文章からは想像がつかないが、
なかなかやんちゃなところのあるひとだったようである。
‘女だてらに’真っ赤なvolvoを駈っていたことを、
どの本だったか、解説の中で認めた。
(たぶん、イタリア国内でのことと思うが、前の車がもたもたしていると、
イタリア語の罵声が飛んだらしい。)

そうかもしれない。
聖心女子大を出たのち(1期生。ちなみに緒方貞子氏も同期。)
両親を説得してフランスへ留学。
さらにイタリアへ留学の後、ミラノの書店勤務。
書店の同僚であったジュゼッペと結婚。夫と協力して、漱石や鴎外、
鏡花や谷崎をイタリア語訳。
しかし、夫は5年半の結婚生活の後、他界。

やがて帰国。
慶応や上智でイタリア語やイタリア文学の授業を受け持つようになる。
後に助教授を経て、上智大学教授。
ウンベルト・サバ、アントニオ・タブッキを日本語訳。

初等教育から聖心学院に通っていたことや、
のちの上智大学教授という肩書きだけ見ていると
見逃してしまうが、夫と死別した後は、どう生活を立てていくか、
頭を悩ませた時期もあったらしい。

1991年、ミラノ、霧の風景が女流文学賞を受賞。
1998年、3月20日、逝去。
だから、須賀敦子の作家としての活動は僅か、十年足らずなのだ。

最近、須賀敦子を読んでいて。
「ヴェネツィアの宿」「遠い朝の本たち」
以前は気がつかなかったが、通奏低音のようにそっと、
カトリックの倫理観が根ざしていることを知った。

咄嗟に、やはり昨年の、ちょうど今頃熟読した犬養道子を連想したのだが、
ヨーロッパで長年生きていくということは、
特に、何らかの精神的な糧を得て生きていこうとすることは、
そうした核を必要とするのかも知れない。

今日で、須賀敦子が亡くなってちょうど10年になる。

須賀敦子について_e0132381_22201010.jpg

by fracoco-Y | 2008-03-20 22:22
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